名前のない男と、解けない4行
調査中CASE #005有力

名前のない男と、解けない4行

回収案件

回収報告 No.005。

前号の通信で予告したとおり、今夜は南半球の浜辺へ。

1948年12月1日の早朝、オーストラリア・アデレード郊外、ソマートン公園の海岸。馬を走らせていた見習い騎手たちが、防波堤に背をもたせかけて座る男を見つけた。

スーツ姿。きちんと組まれた足。眠っているようにも見えた。

——死んでいた。

男のポケットには、紙巻きたばこ、マッチ、ガム、未使用の鉄道切符、櫛。金は一銭もなく、身分を示すものは何ひとつなかった。そして衣服のタグは、すべて、丁寧に切り取られていた。

検死台に載せられても、男は名前を明かさなかった。それから70年以上、誰も彼の名を呼べなかった。当局が回収するのは、この沈黙の記録です。

検死は、最初の不可解にぶつかります。死因が特定できない。

複数の医師が証言台で口を揃えました。3人の医療証人が、この死は「自然なものではなかった」という点で一致した。臓器には不審な点があったが、毒物は検出されない。体内にあったかもしれない何かは、すでに痕跡を消すように分解していた——そう疑う検死官もいました。

身元の手がかりも、ことごとく潰されていく。アデレード駅の手荷物預かりから、彼のものらしきスーツケースが出てきた。中の衣類もまた、タグが切り取られていた。残された数着には「キーン(Keane / Kean)」という記名があったが、その名の行方不明者は、当時、世界中のどこからも見つからなかった。——この名の意味が判明するのは、70年以上後のことになる。

誰かが、この男を「名前のない男」にするために手を尽くしたように見えた。あるいは、男が自分でそうしたのか。

事件が「ただの身元不明死」から「世紀の謎」に変わったのは、ズボンの隠しポケットからだった。

小さく丸めた紙片。印刷された2語。ペルシャ語で——「タマム・シュッド」。

意味は、「終わった」。「済んだ」。

紙は、11世紀ペルシャの詩集『ルバイヤート』のある版の、最後の一葉を破り取ったものと判明します。詩集のテーマは、生のはかなさと、酒と、運命への諦め。最後の頁にだけ印刷される、その2語を、誰かが破って彼のポケットに収めた。

捜索は呼びかけに発展し、やがて一人の市民が名乗り出ます。事件の頃、停めていた車の後部座席に、見覚えのない『ルバイヤート』が放り込まれていた、と。その本の最後の頁は——手で破り取られていた。紙片は、ぴたりと合った。

そして、その本の裏表紙に、鉛筆で書かれた文字列があった。

意味をなさない、大文字のアルファベットの羅列。4行ほど。一行が斜線で消されている。暗号のようにも見えるそれは、軍の専門家にすら解読されなかった。

同じ頁には、もうひとつ。近所に住む若い看護師の電話番号が、走り書きされていた。

……回収案件の報告は、ここまで。ここから先は、当局の解剖台で。


解剖記録

今夜の解剖は、当局にとっても珍しい型です。70年解けなかった謎に、つい数年前、半分だけ答えが出た。残りの半分が、いまだに台の上で動いています。

長らくこの男は、冷戦のスパイだと噂されてきました。未検出の毒。暗号。詩集。看護師との接点。役者は揃いすぎていた。

その物語に、科学が冷や水を浴びせます。

警察は2021年、DNA鑑定のために遺体を掘り起こします。アデレード大学のデレク・アボット教授と、米国の遺伝系図学者コリーン・フィッツパトリック博士は、保管されていた男の毛髪からDNAを抽出。約4,000人におよぶ巨大な家系図を遡り、母方の遠縁にあたる人物との遺伝的距離を測定した結果、男の実名にたどり着いた。

名は、カール・"チャールズ"・ウェッブ。1905年にメルボルンで生まれた、電気技師であり計器製造職人。スパイではなく、ビクトリア州の、ごく普通の男でした。

衣類の「キーン」の謎にも、ここで答え合わせが入ります。ウェッブの義理の兄弟の名は、トーマス・キーン。服はそのお下がりだったと見れば筋が通る——アボット教授はそう説明しています。

ここで当局は、確定・有力・不明を分けて記録します。

確定に近いのは、研究者らがこの身元に強い確信を持っていること。ただし——ひとつ注意書きが要ります。南オーストラリア州警察は、DNAがカール・ウェッブのものと一致すると公式には確認していない。比較できる本人の確実なDNA試料が残っていないため、手続き上、事件は今も「技術的には未解決」のままなのです。研究者にとっては答えが出た。当局にとっては、まだ出ていない。この温度差自体が、この事件の現在地です。

ここで概念をひとつ。ナラティブ・バイアス——人間の脳が、無関係な断片を「ひとつの物語」に編んでしまう癖です。No.001のディアトロフ峠でも働いていた、あの力です。

ソマートン・マンは、この癖の格好の餌でした。タグの消えた服。未検出の毒。ペルシャ語の「終わった」。解けない暗号。近所の看護師。——どれも単独なら説明がつき得る断片が、並べた瞬間、完璧なスパイ小説の目次になる。

では名前が返った今、物語はほどけたのか。有力な見立てはこうです。ウェッブは妻ドロシーと別居状態にあり、彼女がアデレード方面へ移ったという記録がある。男はおそらく、去った妻を探してこの街に来た。スパイではなく、心を病んだ一人の男だった——研究者の多くは、そう考えています。

電話番号の主、看護師ジェシカ・トムソン(通称ジェスティン)についても同じです。彼女は警察に「男を知らない」と答えましたが、石膏像を見せられたとき動揺したと記録される。子の容貌が男に似ているという指摘も、ロシア語を話したという娘の証言もある。スパイ説の中核でした。けれどアボット教授は、彼女がスパイだったという説に与しません。教授は、暗号は「ロマンティックな4行のための覚え書き」程度ではないかと推測している。

そして、その暗号は——いまだに不明のままです。70年以上、軍の専門家もアマチュアも解けていない。近年は「これは暗号ではなく、彼が誰かを探して回った土地の頭文字の記録ではないか」という新説も出ていますが、検証は途上です。そもそも意味があるのかすら、誰も知りません。

名前は返った。死因は不明。暗号は未解読。妻を探していたという筋書きは有力だが、確証はない。——最大の謎に答えが出ても、その周りの謎は一つも消えなかった。これがソマートン・マンの怖さです。

種を明かしたら、もっと寂しい話が出てきた。映画監督のキャロリン・ビルズボロウは、身元判明をこう振り返っています。ロシア人だ、ヨーロッパからの難民だと、私たちは壮大な想像をしていた。だが彼はオーストラリア人で、ビクトリア州出身で、亡くなっても誰も彼がいなくなったことに気づかなかった——それがとりわけ悲しい、と。

スパイの暗号より、誰にも探されなかった男のほうが、ずっと暗い。当局はそう記録します。


未回収案件

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案件M:処刑された男の暗号 1882年、米ニューヨーク州エセックス郡。妻殺しの罪に問われ翌年処刑されたアンリ・デボニーが、獄中に暗号文を遺した。多言語を操った流れ者の正体も、暗号の中身も、今日まで解読されていない。暗号学者クレイグ・バウアーの著書でも一級の未解読案件として扱われる実在の記録。「死者の暗号」特集で、いずれ本編で回収予定。

案件N:ベラ・イン・ザ・ウィッチ・エルム 1943年、英国の樹の洞から見つかった女性の白骨。直後から「誰がベラを洞に入れたのか?」という落書きが各地の壁に現れ始めた。戦時下のスパイ説と民間信仰が絡む、英国版の身元不明事件。公的記録が残る一級の未解決案件。

案件O:身元を返すボランティアたち ネット上で、身元不明遺体のDNAを家系図サービスと突き合わせて名前を返す「市民系図探偵」の活動を追う連作投稿が進行中。実在の手法に着想を得た創作(ネット怪談)で、語りの完成度が高い。当局はフィクション枠として観察を継続します。


暗号身元不明豪州

参照した公開資料

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